淪落記

2004-01-23up

4、少年(奥州の森2)



俺が耳を疑ったのは、次の瞬間だった。
「だと…?」
俺と奴の間を霧のような雨は降り続いていた。
肌寒い4月の雨。自分の息が白く飛んでいるのを眺めながら
奴の云った言葉の意味を考えた。
一瞬止まった時間の間に色んな考えが浮かんでは消えて
そして後に可笑しさだけが込み上げてきた。
「はっ、アツシ…」
知らずに奴の名が口をついた。空を見上げて笑いを堪えようと
するが抑え切れずに深い森の中 足下の屍の上に木々の間に俺の笑い声が響いた。
一頻り笑った後で俺は奴との間に突き立てた太刀を
引き抜いて泥を振り払い水平に構えた。
俺が太刀を掴んでも奴はびくともしない。
「私はアツシではありません。
 アツシはあなたの名前でしょう、鞍馬寺に居た頃の…。」
奴と初めて会った時の事を思い出し始めていた。
「…そうだ…。」
あれは木曽の義仲と今井兼平を討ったという知らせを
受けたその夜の事だった。
最初は敵の間諜かと思った。それにしては奴は無邪気過ぎた。
名前がないのだと言うのを鵜呑みにして俺は奴をアツシと呼んだのだ。



「どうだ、弁慶」
「見つけましたぞ。大将の仰る通り、木の上で
 こやつが潜んでおった。」
「離してくださいっ」
弁慶に力任せに突き飛ばされても平然と後ろを向いて抗議している。
「私が何をしたと言うんです!」それは少年だった。
まるで絵から抜け出たような整った顔だちに
女のように白い肌は薄汚れているが不思議と不潔な印象はなく
絣の前合わせの下に黒い袴を身につけて
鹿か何かの革で出来た袋状の物を草履の代わりに履いている。
山の中を歩き易いだろうと一目見て感じた。
「見れば丸腰のようだが?」
恐ろしく身軽な格好でまるで何者か見当が付かない。
  「敦盛…? 
 こやつ、不思議と敦盛に似てはおらぬか。」
佐藤継信が言い放った。
「こんな所に、奴が居るわけはなかろう。」
首を振りながら継信に答える弁慶が
逃げようとする少年に腕を払われ大きく足下を崩した。
華奢なその体つきからはどんな力で弁慶の腕を振払う事が
出来たのかに俺は驚きを隠せなかった。
「今頃、惰眠を貪っておるさ、平家の若君は」
ははは。
声は笑っているが弁慶自身も少年の力に驚いている。
「御主、名は?」
再び弁慶に取り押さえられ臆せず周りを見渡す少年に問うと
少年は答える代わりに俺から目を反らした。
観念したのか、何を考えているのか判らない。こんな奴は初めてだ。
逃げる隙をまだ窺っているのだろうか?
力を入れてるように見えなかったのに弁慶の腕を振払ったのだ。
俺は緊張していた。
「ありません、名前など。」「こやつっ。」「よせ。」
名前を本当に知りたいわけではなかった。
「どちらにしても、我が軍がここに留まっておるのを
 里に降りて吹聴されても困る」
後ろ手に縛られながら、少年は俺に向いて首を振った。
近くで見れば見るほど彼のどこにそんな力が潜んでるのかが
判らなかった。丸腰であるのに農夫にも猟師にも見えない。
ボロを着て顔や手は汚れているが裾を刈り上げられた髪は
前を眉の上で奇麗に切りそろえられている。
親の名前も自分の名前もそれは強固に口を閉ざす。
そして並外れた腕力。全てに辻褄が合わない所が怪しすぎた。
とにかく我が軍が引き上げるまでは一緒に行動してもらうしかない。
「明後日までだ。悪く思うな」
「里に、降りる事はない…。」ポツリと少年は呟いた。
言ったあと、我々になんの願いも通じないと悟ったのか
はあ、と溜息をついて諦めたように奴はその場で座り込んだ。
「里に降りる事が無いだと?」「…人を捜しているんです。」
心底疲れた声は皆の哀れを誘った。
「ずっと、山の中をずっと…。
 あなた方の事は誰にも言いません。だからお願いです…」
「敦盛に似ているのもなかなか面白いが
 なんの役にも立たぬ。
 戯れにアツシと呼ぶのはどうだ。」
少年が顔をあげた。まるでそれが自分の名だとでも言うように。
「明後日までだ」
もう一度言ってから弁慶に合図すると
少年は引っ立てられ向側の柱に縄をかけられた。




5へ続く。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送