自分の幸せ願うこと



2007-01-28up







<1>
やがて太陽が穏やかな光を放ち、
乾いた風が仰臥したアンドレの上を通っていく。
彼の涙はすっかり乾いてしまっていて、それまで顔を覆っていた腕を眩しい空へと伸ばした。
勢いを付けて半身を起こして立ち上がり、軍服に付いた草をすべて払い落とすと
頭を軽く振って目頭を指で拭い、平営へと歩き出していった。

司令官室の前まで来てアンドレはドアをノックする。
応じた低い声を聞いてから部屋に入ると、
ガタッと椅子を倒したオスカルがアンドレへと詰め寄った。
オスカルの小言もいつものことと、机の脇に立っていたアランは
有無を言わさずアンドレの横っ面を張り倒したオスカルに目を剥く。

「あ…っ」
声にならない声をあげたアンドレは頬の痛みよりも
驚きの方が勝って、まるで冷水を浴びたような顔でオスカルを見た。
「平営内で発砲するとは、何事か!
 ここは、小競り合いの起きている市内では無いのだぞ!!」
「…申し訳ありません」
従僕然として、彼は、主人であるオスカルに頭を下げた。
それを見ていたアランは少なからずの責任を感じ、
それまでの態度を改めはしなかったものの、先にアンドレを怒らせたのは
自分であると彼をかばい「どちらでも良い!」と、オスカルに一喝され
カクッと顎を鳴らしたのだった。

2人が出て行ったあとでオスカルは、
倒した椅子を起こしてくれたダグー大佐に礼を言って掛けながら
「アンドレは謹慎させるべきだろうか…」と呟いた。
「はぁ、しかし」
意外、と云った声で、大佐は鬚の中で口籠った。
「いつもの…が、度を超えただけのようですし
 どうでしょう、今一度訓告ということでは」
「ダグー大佐」
「我々からしたら、彼は、隊長のお身内みたいなものですし」
オスカルは唇を引き締めた。
彼女が就任してからの、他の隊員たちのーとくにアランの
上官侮辱罪などを考えたら、今回のアンドレの発砲もオスカルの権限で
握りつぶせぬ事もなかった。しかしやはり夜勤明けの隊員が大勢見ているなか、
人通りの絶えない中庭での発砲は不味かったのだ。

「あいつは、あんな奴じゃないんだ。もっと本当は
 穏やかで、優しくて…」
幼なじみをかばう口調でオスカルはダグー大佐に訴えた。
そんな奴がなぜ発砲なんかするのだ? 大佐に訴えながらオスカルは自問した。
アンドレは前にも平営内で発砲したことがある。
オスカルが転任した当時に、アラン達に連れ去られ衛兵隊を出て行けと脅された時。

わたし−−−?

そう思い巡らせた時、ダグー大佐が静かにオスカルの隣に立ち
彼女の顔を覗き込むようにして、微笑みかけた。
「それは判りますよ、隊長」

オスカルが顔をあげると彼は手を背中で組んだまま背筋を伸ばし
「さてアラン・ド・ソワソンには私が後で訓告しておきましょう」と言って
ドアの前まできてもう一度オスカルに振向いた。
「懇親会を開くからその時余興をやれとでも言ってやりましょうかな?」
オスカルが少し目を見開いてから微笑むと、大佐は優しい目で黙礼して出て行くのであった。


その日はいつも以上にアンドレは、黙々と見事なまでに
オスカルを補佐していた。一貫してアンドレの態度はオスカルを
ただの主人。或いは上官のように接して、身分と立場を弁えた態度と言葉遣いに
オスカルの方はまた別の苛立ちを募らせていった。

屋敷に帰る頃になってもその態度は変わらず、馬車の扉を
「どうぞ」と、開けて促してくれるアンドレをオスカルが睨んでも
何も見えてないかのように、全く視線を合わせなかった。

勝手にしろ…!

走り出した馬車の中で、それでも向側に座ったアンドレにいい加減
はずした手袋でも投げ付けてやろうかと思った時だった。彼がふとこちらを
−自分の手の甲を見つめていて、それにオスカルが気付いた途端
アンドレはまた視線を落としたあと、窓の外に投げた。
つい先日ヴァイオリンのG線で切った所である。思えば
アンドレとまともに話したのもその時が最後であった。

元々、アンドレは話し上手な方だった事をオスカルは思い出していた。
それがなぜ、いつのまに、こんなにも寡黙になってしまったんだろう。
それも、自分のせいなのか。



ジャルジェ家は日が暮れてしまっても使用人区画はいつまでもにぎやかだ。
門番のケヴィンと年老いた庭師が使用人区画の離れの前で薪を割っていた。
自室に帰ったオスカルは軍服を着替えてブラウスの上に皮製のベストを重ねた。
ばあやが持ってきてくれたショコラを手にバルコニーに出て
吹いてくる秋風と口にしたショコラの甘さに一息吐いた時だった。

使用人区画の方から楽し気な声が聞こえてくる。
部屋に戻り、寝室の方の窓から外を眺めるとケヴィンと庭師が
アンドレを呼び止めて、話しかけていた。

やがて斧を手にしたアンドレが2人が積み上げた薪を
次々と割って行く様を見つめていた。何を話しながらなのか、
あんな風にアンドレが自分に笑ってくれたのは
いつだったかと思い、オスカルはカップの中味が冷えてしまうまで
その場に立ち尽くしていた。
家人が仲の良いジェルジェ家。
とりわけアンドレは子供の頃からここに住んでいるので、自然とどこに行っても
誰とでも馴染んでいてオスカルはそんな彼を羨ましいと思ったこともあった。


「嬢ちゃま」
年老いた庭師の声にケヴィンが振り返る。
アンドレはなんの反応もせずに振り上げた斧で一気に薪を叩き割った。
「アンドレ」かまわずオスカルは指先を上向けて彼を手招く。
アンドレはケヴィンに斧を返し先を行くオスカルの後を着いて
彼女のテラスへと続いた。リネンを敷いた椅子に
オスカルは腰掛け立ったままの彼に座れよと勧めたが、
アンドレは無視して別の事を言い出した。

「アランは訓告処分だってな
 おかしなペナルティが付いたとか言っていたが
 俺の方が罪は重いんだろう?」
おかしなペナルティと言うのにオスカルはダグー大佐の言葉を思い当たり、
同時にアンドレとアランとの仲を推し量っていた。
「本来なら謹慎になる所だ、だがお前は」
「それじゃみんなが納得しないだろう。」遮るように口を挟み
「謹慎でいいよ」短く話を切り上げて立ち去ろうとするアンドレにオスカルは
「お前が1日でも居なかったら私が困る」と早口で食い下がった。
「……」
椅子から立ち上がったオスカルは続けて言った。
「アンドレ。兵営内でもう騒ぎを起こすな、あいつらの挑発にも乗るな。
 −訓告したぞ。」
そう言って彼を励ますつもりでオスカルが彼の肩に手を伸ばした時だった。
「よせよ」アンドレが横を向いて、低い声で呟くと、
思わぬ彼の拒絶に、オスカルは傷付いた目を見開いて、手を空で漂わせ
「何故だ…」と、反射的に聞き返していた。
「…何故なんだ。
 私たちはずっといい関係でやって来れた。
 私ひとりで出来た事なんて何も無いくらいだ!
 いつもお前が側に居てくれて、静かに支えてくれてた。
   目を怪我させしまった時も、お前は勇敢で。
 あの、あの後も…」最後の言葉をオスカルは吐息に近い声で、俯いたまま続けた。
アンドレは顔を反らせたまま目を瞑り、また開けて彼女を見た。
「話し合った事は一度もなかった。だけど何も変わらずに、
 普段通りで居られた。なのに何故なんだ?!」 
「ああ! なんでだと思う…?!」
アンドレの悲痛な声に気押されまいとオスカルは唇を噛む。
「お前の事が大事だ、私は」
自分の気持ちを言葉にするのがもどかしくて、しかし
オスカルは自分で言った言葉でアンドレへのいつもの優しさが
胸の中に満ちてくるのを感じていた。
そう、こんなにもお前の事が大事なんだ、と。
子供の頃からずっと変わらない、大事な唯一の存在。
「だからただ…」

次の瞬間オスカルは、アンドレに抱き寄せられ、
悲鳴をあげる間もなく唇を激しく貪られていた。
両手で顔を固定され髪の毛一筋も動かせず、驚愕に目を見開いて
離れようとしても、圧倒的な力でオスカルを追い詰めていく。

−−−すべてはアンドレの頭の中の出来事で…
実際の彼は苦しそうにオスカルを見つめ返すだけで
その身体から迸った熱い何かに触れて、オスカルの肌は粟立ち
掛ける言葉を失い、思わず後退さった。

「失礼いたします。
 オスカルさま、奥様とばあやさんがジェローデルさまとの
 晩餐の事でオスカルさまをお探しです」
客室用メイドのポーラが現れて、2人の間の緊張感が一気に緩んだ。
だがオスカルは自分の感情を平静に戻しかねて
動揺を隠しながら、横を向いてポーラに応えた。
「…なに」
「明日は晩餐に間に合うように、お帰りになられるのかと」
「…行かなくていいのか?」
突き放すようなアンドレの声に、オスカルは反論することも出来ず、
だがその場を離れようともしないで、彼を見つめていた。
アンドレはそんな彼女から離れ、ポ−ラの横をすり抜けるようにして
厩舎のほうへと歩き出す。オスカルはもはや呼び止める言葉も出せないままに。
ポーラがゆっくりと頭を下げる前を通って母屋のほうへと歩き出した。




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2007-03-05up



<2>
「余興ぉ?誰が??」
ラフなシャツに着替えたラサールが、部屋のいちばん奥を
陣取っているアランに聞き返した。
アランは苦い顔をしながら拳で自分の額を叩いている。
今朝、アンドレを挑発した為、発砲騒ぎにまで発展させたアランが
ダグ−大佐に呼び出され、なんらかの処分を言い渡されたであろう事は
第一班の連中はみんな判っていた。
だが、すぐにアランは平営に帰ってくると、何も言わずに
次の夜勤までの仮眠を取り出した為、彼が起きるまで
一体なんの処分になったのか、気になっていたのである。
連中でお互いの顔を見合わせた。
懇親会があるから余興をやれと云われたと、アランは確かにそう言ったのだ。
「んなの、ダグーのおっさんの吹かしだろうがよ?
 だいたいあるかってぇの。こんな状態で懇親会が」
勤務は大体アランと逆で、これから寝に入るラサールが寝台の中から
笑い飛ばしながら言うと、
「だ、だけど、それなら隊長も来るよなあ…」
吃音気味のジャンが頬を赤らめて薄い目をますます細めて言った。
「うん…酒に強いのかな、弱いのかな」「酔った隊長…」
ジャンの隣でピエールは美しい女隊長との飲み会に思いを馳せて
夢見心地でゆらゆら揺れていた。
「んぁあ、俺の前であの女の話をすんなぁっ!」
突然、揺れているピエールの側頭部にアランの放ったワインコルクが見事に当たる。
「命中。」「あれだけ動いててよく当たったな…」
「余興それやれよアラン!」
ラサールとフランソワの言葉に周りは一斉に笑い出し、
アランはふて腐れ顔で軍服に着替えながら舌打ちした。
「冗談きついぜ…」


ジェルジェ家の伯爵夫人の部屋では、
オスカルは縫い物をしている母親の手元を見ながら
訊ねられた事を心の中で反すうし、やっぱり意図を理解出来ず聞き返していた。
「なんと、仰いました?」
「オスカルから見てジェローデル様はどういう方です?」
晩餐に出る、出ないの話であったはずなのに、
オスカルの答えを待たずに、気を利かせてばあやまで退出していった。
「…有能だと思っておりました。見掛けに寄らず、彼は真面目で努力家です」
オスカルは近衛の時の彼を思い出し、元上官らしく冷静にジェローデルを
評価して言った。そういう彼だからこそ
オスカルの後任として近衛連隊長の任に着いているのである。
着任の際、異を唱える者など恐らくは誰一人として居なかったはずだ。
夫人は、そんな自分の娘に優しく笑いかけると、
「オスカル」と彼女に向き直って言った。
「あなたと殿方の話が出来る日が来るなんてね」
これにはオスカルも参り、大袈裟に息を付いて「母上」と
話しかけようとして、夫人の少しもふざけていない顔を見て言葉を失った。
「と、とにかく、明日は勤務形態が私自身よく、いえ
 遅くなりますので、晩餐に出ることは出来ません」
「真面目で努力家なのでしたら」部屋を出て行こうとするオスカルに
夫人の声が追いかけてきた。
「ジェローデルさまは、恐らくお待ちになるでしょう」


オスカルは自室に戻ってから、もやもやした気分をどう処理しようかと辺りを見渡した。
ヴァイオリンを弾いてもいいが、何を弾こうか。
剣を取り出して素振りを始めたとしても
それならアンドレを呼んで、相手をしてもらった方が良いに決っている。
だけど彼とは、今日また口を聞けない状態にしてしまった。
頼んだらいつだって相手をしてくれるが、
無理強いしても後で自分がもっとやるせなくなるだけなのだ。
また、曖昧にしてしまった----。
母親との会話を思い出してオスカルは溜息をついた。
いや、曖昧にしている気は無いのだ。
何故かこの事に関してはそうなってしまうがそもそもオスカルの心は決まっている。
ジェローデルとの結婚など、あり得ない。

『だからただ…』

「だからただ…、なんなのだ」静かに呟いて
オスカルはベッドの上に身を投げた。
ポーラがやって来なければ、あの後、自分はアンドレに何が言いたかったのか?
何も言えなかった。アンドレの気持ちの深さを考えると
空恐ろしくもなってくるような…
そうして。
そんな事を感じたり、また考えたりする暇も無いのだと自嘲する。
そんな堂々回りを、彼女はずっと心の中で繰り返していた。
元々、オスカルがアンドレに思ってる気持ちは、兄弟とか
従僕とか、恋人とか、主人とか、そういうものでは無かったのである。
自分にとってのアンドレはアンドレなのだ。
単純に言葉では言い表せないから、兄弟のようなとか言うだけで
本当はもっと大切な…

『お前の事が大事だ、私は。
 だからただ…』

そうして、また別の堂々回りも始まる。
『だからただ…』

「お前の事ばかり考えるのはなぜだ…」
ふいに出た自分の言葉に驚いて、オスカルはベッドの上で俯せていた顔を上げた。
そうして緩々と身体を起こし、手でそっと自分の顔に触れた。
アンドレの側に寄ると、さっきのように肌が粟立つ事がある。
たまにこうなるのだ。そんな時は大抵、心臓が一瞬跳ねて息苦しくなるのだが。
その原因が何なのかまではオスカルは考えようとしなかった。




朝が来るのが少し憂鬱な気分ではあった。
オスカルはそれでも定刻通りに起床し、いつもと変わらずに軍服に身を包み、
軽くワインに口を付ける。日々と変わらぬ日常を繰り返して
そろそろアンドレが馬車の用意が出来たと、呼びにくる頃かと
グラスを置いて、着付けの手伝いをしていたメイドのナナから手袋を受け取っていた。
そう、これが日常。
オスカルの行く道を通り易くしてくれるのがアンドレの仕事であるが
今のオスカルにとっては、それすらも確信の持てない事に
苛立ちと焦りと、戸惑いが言葉に出来ない不安にさせるのだった。

自ら馬車の手配を頼んで、さっさと行ってしまおうかと
部屋を出たオスカルは、階下の踊り場まで上がってきているアンドレと目が合った。
「アンドレ」
いつも通り、アンドレは衛兵隊の軍服を来て、意外そうな顔でオスカルを見上げ
「馬車の用意が出来たぞ」短く言ってから、オスカルの為に階段の道を開けた。
その姿に安心したオスカルはさっきまでの不安を払拭された清々しさに
いつもと変わらぬ表情でアンドレに「ありがとう」と声をかけた。

「今日は出て来ないのかと思ったぞ」
馬車に乗り込んでしばらくしてから、オスカルはほんの少しの皮肉を込めて
アンドレに話しかけた。自分の不安が無くなって今なら憎まれ口を聞いても
彼に甘えられるような気がしたからだ。
「お前が決めたことだろ?」
だが、言外にアンドレは単なる義務である風に言い、
オスカルは小さく息を吸い込んだ。
「しかし、お前が…」
「俺が謹慎すると言っても、お前が訓告で終らせたんなら
 それに従うほか無いからな?」
アンドレは、これを悪く取る事も良いように受け取る事も、相手次第といった
穏やかな淡々とした口調で告げると、遠いものを見るような目でオスカルを見た。
何か、試されているように感じたオスカルは
「そう…だ。」と肯定してから、わざと毅然とした声で言った。
「お前に『自由』があると思うな」
今度はアンドレが息を詰める番だった。
腕と脚を組み、顔を反対側の窓に向けてしまったオスカルに
アンドレは彼女が怒ってしまったのか、ただ会話を止めただけなのかも
判らず、自分側の窓に流れる景色へ視線を移した。
「教えてくれ、オスカル。俺の『自由』ってなんだ?」
オスカルは身動きしないままで、唇を引き結んだ。
同じ馬車の中で互いに背を向けあい、孤独を感じている2人であった。


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 2007-09-28up 



<3>
遠くで鳴っている鼓笛隊の音。
隊員達に叱咤するオスカルの声が兵舎で寝ているアランの耳に届いてきた。
女隊長が閲兵しているのに、自分はここで何をしているんだろう?
そんな風に思いながら、自分がまだ目覚めていない事に
気付いたアランは驚いて目を覚ます。

ほんの数時間前
2日続けて夜勤を勤めたアランは無精髭に
目の下にクマをつくった顔をして兵舎に引き上げて来た。
今夜は非番で明日からはラサールたちと交代になり夜勤は終りだ。
 
アランは辺りを見渡して古びたただ1つの時計を見た。
『ハラへったな…。』
「おい、アラン起きたか?」「…ああ?」
食事も摂らずに眠ってしまったら、外へ行かないと、つまり
兵営を抜け出さないと食べ物にありつけないのである。
二段ベッドの上から声を掛けてきたジュールは
顔だけでアランを覗き込んで「じゃあさドニ亭に行かねぇ?」と
言ったあとで、梯子を使わずに飛び下りた。
パリ北部にある最近の彼の馴染みの店の名前を聞いて
アランは一言「遠っ」と答える。だがしかし、悪くはない。
ベッドの中から出てジュールの後を追い、部屋を出る前に
窓の方を振り返った。鼓笛隊の音はとっくに絶えていて
夕闇はすでに蒼い闇へと移り変わっていた。

苦もなく彼等は兵営を抜け出すのに成功して、
途中、司令官室のある棟に横付けにされた豪奢な馬車を見かけた2人は
顔を見合わせて首を捻った。それは馭者のお仕着せの美しさも、白い葦毛の馬の毛並みの良さも、
見るからにまごうかたなき誇り高い貴族の馬車であった。
誇り高い貴族が、同じくらい身分の高い客を迎える為に寄越すような
馬車の中でも、賓客のために使われる上級の馬車を、この目で
こんな場所で見る日が来ようとは、ジュールももちろん、アランの方も
想像出来なかったのである。
「なんで、あれ?」「知るかよ、行くぜ」


「よぉ、衛兵隊のダンナ方」「なんか、食わしてくれ、ドニィ」
ジュールの泣きが入った声に、笑いながら、あいよと返事をして、
40がらみの骨張った顔をした店主が棚から2枚の皿を取り出し
それぞれ仕込みの魚料理にカットしたバゲットを添えてワインと一緒に2人の前に並べた。
歓声を上げながらジュールがバゲットにかぶりつき、アランがサカナ料理に手を付けて、
ぐいっとワインを飲み干したその時、「ああ!アラン!!」
「ぶっ」大声で名前を呼ばれアランは思いっきり、中味を吹き出した。
「なんだよぉ〜!いいなあ!!」
ラサ−ルにフランソワ達である。ジュールが行こうとアランを誘うくらいだから
もしかしたら、という期待がなかった訳ではないが、
本当に彼等と落ち合う事になるとは、鄙びた酒場が一気に身内の集まりのような
様相を呈していた。

「オレらは非番でございますから。」
ジュールが2人に告げて
「お前らこそ、いい度胸じゃねぇか」と、アランが毒づくと
「今日は隊長が居ねぇしさぁ」「迎えに来た客と帰っちまったんだ」
フランソワはラサールと、肩を組みながらふざけて笑いあった。

あの馬車かと思い当たったアランは、皿に伸びてきたラサールの手を引っ叩きながら
片眉を上げて「隊長に客ぅ?」とラサ−ルに訊ねた。
「近衛連隊長さまだと…さ。
 前の副官て話だ
 それがまあ…
 オッジョーヒンな野郎で隊長にもヤッサシイ顔してんだよなぁ」

そんな風に接するやつも居るんだ、あの人に。そりゃ居るはずか。
と、考えるアランにラサールは肩をすくめて言った。
「大貴族さまだよ、オレらとは住む世界がやっぱ違うねぇ」
「アンドレは?」アランが聞くと、ラサールは両手をあげて
首を振りながら、大きく息を吸い込んだ。
「ていうか、野郎、最近オカシクね?」

あの色男がオカシイのは今に始まった訳じゃない。
なんてったって、あのオトコオンナのことを、、、
アランは毒づきそうになって、ジュールに肩を揺さぶられた。
「ドニがおっぱじめたぜ?」「あ?」

「立て ダンナ方!」「踊れ、踊れ〜!」テーブルの客たちが立ち上がって叫ぶ。
「おわっ?」

タタタン・タタタ…タン
タタタン・タタタ…タン


出し抜けに始まった打楽器の音に振り返ると
店主のドニがテーブルの間を歩きながら見事な手さばきで
白い-恐らく鹿皮を張った-長い筒状の打楽器を叩いていた。
客達は歓声をあげてドニが奏でる軽妙な音に、足踏みを始めたり腕を振り上げたりし始めた。
圧倒的に少ない女性のパートナーなどとは関係なく
酒の入った浮かれ気分で、瓶を片手に踊り出す者まで現れるのだった。



ちょうどその頃、アンドレは空の馬車の馭者台でジャルジェ家への帰路についていた。
帰り際にジェローデルが司令官室に現れ、直々に迎えに乗って来た馬車へ
オスカルが成り行き上断わり切れず、乗らねばならなくなってしまった事で
彼はジェローデルの馬車のすぐ後ろを追い掛けるように
ひとり邸の馬車に乗らざるを得なくなってしまったのである。
主人の居ない馬車にアンドレが乗れるはずはなく、
馭者のエンリコは馬車の後部に立ち、彼が馬車を馭して帰る事となった。
時折、目の前の豪奢な馬車を見つめながら
ジェローデルがオスカルを自分の馬車に乗せる為に口説いている間、
自分には目もくれなかった事を思い出していた。まるで居ても居なくても同じに、
ジェローデルは空気のように彼の存在を無視したのであった。

「今も美しい貴女の側にこれほどまで近くに居られる幸せを
 判って頂けるでしょうか」
「お前がそんな言葉を並べたてられる男だとは知らなかったぞ」

その時ジェローデルは、オスカルに何回目かのアプローチを
断わられていた直後であった。
仕事以外のところではオスカルは終日、アンドレとの距離を縮めることだけを考えていた。
ジェローデルとの結婚話はもはや意識の外に押しやられていたのだ。
それが今日突然迎えにやってきて、いくらオスカルが晩餐の約束をした覚えはないと
言いはっても、「逃げるのですか?」と予測してもいない言葉を投げかけた。
オスカルが驚いて振向くと、「良かった」とジェローデルはにこやかに その独特なペースで
オスカルを自分の馬車に乗せる事に成功したのだった。

「ジェローデル。
 一体、なんの真似なんだ、これは?」

「はい? 今夜の晩餐には貴女にぜひお会いしたくてですよ?
 残念ながら、まだ一度もご一緒した事がありませんので」
オスカルが何を云っても彼はにこやかに微笑んでいた。

確か、彼はもっと、貴族らしい機知に富んではいても、
一緒に居て楽しい男だったのにとオスカルは思い巡らせてみる。
最も、最初から自分を女としてしか見ていなかったと言う彼であるから
ジェローデルらしい、好意の見せ方だったのかも知れないのだが。
母親に言った真面目で努力家な性格が、こんな所で現れるとは思わなかった。

「そんな事を言ってるのではない。
 お前はいい奴だ。その事は私がいちばん良く判っている」
「ありがとうございます」
「だからなぜ、父の横暴の片棒を担いでいるのか、不思議でならない」
「それはもちろん、美しい貴女と幸せになりたいからです」
ジェローデルのあまりにストレートな言い方にオスカルは失笑した。
まただ、はぐらかされた。と思ったのだ。
「自分の幸せを望むのが、何か悪い事ですか。」ジェローデルは真剣だった。
「貴女にも思わせて差し上げましょう。私と結婚して良かったと。
 素直に、自分の幸せを願うなら、これが最良の方法だったと」
「ジェローデル…」
「いつでも。」

ごく自然にジェローデルがオスカルの手を捉え、彼女の顔色が変わる。
それも一瞬のことで、彼女は唇をきゅっと引き結び、深く煌めく蒼い瞳で
ジェローデルを睨め付けた。その反応にジェローデルは、彼女がかつて
宮廷に伺候していた時、陰で「氷の華」とあだ名されていた事を思い出す。

まさに全身で拒まれている。

今まで彼女に目を付けた数々の男たちを彼は知っていた。
実際に声を掛ける勇気のある男は、徹底的に無視されるか、或はこのように
全身で拒まれ、退散するしかなかったのだ。

オスカルの瞳を見つめ返しながら、ジェローデルはその手にほんの少しの
力を加えた。武官として当たり前に鍛えられたジェローデルの手は
大きく優美であったが力強かった。
オスカルの手を取り、片膝を曲げてその手に口付けようとするが、彼女は手を引いた。
「馬車を止めろ」抑えた声でオスカルが命じた。
「はい?」「馬車を止めろ!」「オスカル嬢!」

「は…どうどう」
前を走る馬車が急に停車してしまい、
追いかけるように走らせていたアンドレはあわてて手綱を引いた。
「なんだい?」
不思議に思ったエンリコが後方から声をかけてきた。返事の代わりにアンドレは馭者台から飛び下りると
その時、前の馬車の扉が開いて、先にジェローデルが現れた。
「挽回する機会をください、マドモアゼル…」
続いて降りてきたオスカルは彼に何も告げず、アンドレの横を素通りし
ジャルジェ家の馬車に乗り込んだ。「出せ!」オスカルの声は
オスカルを見守っていたジェローデルにまで届き、彼女の馬車を通り易くするために
ジェローデルは自分の馭者に脇に寄せるように命じてから乗り込んだ。

アンドレは慌ててまた馭者台にあがり、手綱をとって馬を走らせる。
ジェローデルは通り過ぎて行く馬車の馭者台に座るアンドレと
窓の奥に居るオスカルを垣間見て、一呼吸おいてから馬車を進ませていった。


「お待ちください、マドモアゼル」
ジャルジェ家に到着して、ほぼ同時に馬車から降りたジェローデルは
慌てた調子でオスカルを呼び止めるが、オスカルの方は出迎えに現れたばあやたちの間を縫って
玄関ホールの階段を駆け上がって行ってしまうのだった。
どうやら、晩餐まではジェローデルの事を、柱に施された彫像のように
無視する心づもりであるらしい。

「ジェローデルさま、晩餐まであちらで主人と、食前酒でもいかがですか?」
その場を取り繕うように、客室用メイドのポーラがジェローデルに声をかける。
アンドレはエンリコと馬車を送り、ジェローデル家の馬車をも誘導して
厩舎へと進め、後を下男たちに委ねた。

晩餐が始まろうとしている厨房は上を下への騒ぎで、その中アンドレの祖母は
小さい体をせかせか動かして何事も段取りを組み立ててこなして行くのだったが、
大抵、予想外の事が起こり頭を悩ませる事になる。
「ばあやさん」慌てて厨房に入ってきた今のポーラがそれであった。
「ジェローデルさまが、オスカルさまとお話したいと仰って
 旦那さまも私にオスカルさまを連れてくるように仰ったんですけど…
 そんなの、私には無理ですよね…どうしましょう…
 ここに来る前にお部屋の前から声を掛けたのですけど、やっぱりお返事が無くて…」
そこまで聞いて、アンドレはその場を離れ厨房から外に出て
井戸の水で念入りに手を洗った。
今にも、自分にオスカルの事を頼んでくる祖母の声が聴こえてくるかとも
思われたのだが「私が行ってみようかねぇ…」という小さい声が微かに
耳に届いてきただけであった。

再びアンドレは厨房に入ると、祖母が持っていた箱をポーラが
重そうに持ち上げて運ぼうとしていた。中身は小さめの蝋燭がぎっしり詰まっている。
「礼拝室に持っていくんなら、俺が行くよ」
礼拝室には、将軍の部屋の前を通らねばならなかったのだ。


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 2007-11-11up 



<4>


タッタ タタタ タッタ タタタ

「よう、ドニィ」
出し抜けに店に入って来た男に、振り返った店主は
露骨に嫌な顔を隠しもせず、打楽器を叩く手を止めた。
「ウィリー?」
一瞬の抑揚の後に響く音は、小さく、小さく、小刻みに指先で叩き出され
緊迫感に満ちていた。


「おい衛兵隊のダンナ方、こいつをとっ捕まえてくださいよ。
 女の敵でさァ!」
周りに笑いを振りまきながら男同士で踊っているラサールとジュールに
ドニは身体こそリズムに乗ってはいるが、真面目な顔で言い放った。
「もうあいつとは手を切ったって、今、おんでて来たとこよ!」
ウィリ−と呼ばれた男は、どこか本当に憔悴し切った顔で
自分こそ被害者だと訴えるように、アランの方にも向き直った。
「オレは最初から、あの娘とお前が、上手く行くとは
 思っちゃいなかったが…」そしてドニの音の緊迫感は頂点に達した。
「てめえなんざ、クズだ。」

「言っとくが、オレがっ
 オレが逃げ出して来たんだぜ?あんな、おっそろしい女っ」
「自業自得とかってやつだろ、どうせそうさ!」
けっ。全く信用していない店主にウィリーは激しく毒付いた。
「とにかく、オレは身を隠す。
 最後に一杯って気もなくなっちまった!」
派手な手振りで男が捲し立て、大きな音を立てて扉が閉じられる。

男が出て行ったあとも、店内に打楽器の音は流れ続け、やがて本当に途絶えた。
男と店主とのやりとりを聞いていたアランは、カウンターの奥に
やれやれと戻った彼に一言、「クールだったぜ?」と、褒めたたえた。
ウィリーへの啖呵か、打楽器の演奏への賛辞だったのか、店主はまた
元の人の良さそうな風貌に戻って、骨張った顔に片目だけ瞑って笑った。
「だんなは貴族かい?
 やぁ、何も差別しようってんじゃないよ」
「貴族だといけねぇか」
「幸せになって欲しい子が居るんだけど
 貴族様には勧めていいのやら」
「それならおっちゃんが面倒見てやったら?」
「見れるもんなら、ねぇ・・・」
タタタタタタタ…‥ン
再び、店主が奏でる古い打楽器の音が次第に低く小さく
カウンターの奥で響いた。
会話の途中だったアランは一瞬面食らった顔をしてドニを見守った。
音が消え入る一瞬の後に、店主は錆びた声で朗々と歌い出したのだった。
テーブルに着いた常連客が口笛を吹いて軽く2・3拍手する。

どこかロマンチックな雰囲気を持つ店主が歌い始めたのは
聴く者を引き込むような切ない恋い唄だった。




ジャルジェ将軍の書斎の前に差し掛かったアンドレは、
部屋からなんの物音も、話し声もしない事を不審に思い、足を止めた。
オスカルはおろか、ジェローデルも将軍でさえも居ないような静けさに
アンドレは、しばし留まり書斎のドアを開ける理由を考えてみたが、
どれもが明確な理由に当たらず、その場を通り過ぎるしか無いのであった。
全員が晩餐室に移動したのであれば、もう食事が始まっているのだろう。

階段を降りて半地下になっている礼拝室に入ると、祭壇に掲げられている燭台を
すべて集めて、アンドレは小さくなった蝋燭の交換を始める。
ふと手を止めて、顔の前で手を組んで祈る、マリア像を見上げた。
白い陶器で造られた透明な微笑みに、アンドレは
心奪われながら、我ながら何を祈ろうと言うのかと、自問した。
彼が祈る事が出来るのは、主人の幸せと神への忠誠だけだというのに。

「オスカル様」
その時、寝椅子の背に肘をついて、突っ伏しているオスカルの
背中からばあやは促した。ジェローデルが会いたがっていると、
事実だけを伝えた所で、彼女がなんの返事もしなかった為だ。

「ばあや、アンドレにショコラを持って来てもらって」
ばあやがやってきて、すぐに部屋の扉を開けたオスカルも
彼女が説得している内容には一切耳を貸さず、代わりに別の要求をした。
「嬢ちゃまったら」「お願い…」
ばあやは困りながらも、彼女の事が愛おしくて仕方なく
シャツ一枚のオスカルに、側にある小さな房の付いた肩掛けを被せた。
「お願いだ、早く」
「わかりました…」

ばあやが退出する扉の音を聞いてオスカルは目を閉じた。
以前のアンドレなら美味しい温かいショコラを持ってきてそのまま
話し込んだりヴァイオリンを聴かせたり。
だけど最近は飲み物を置いたら彼はすぐに出て行ってしまう。
オスカルはそれが呪わしかった。
今度も彼女が呼び止めてもアンドレはすぐ出て行ってしまうに違いない。
容易に想像出来てなんだか情けなく思えてくるのだ。
それに例え引き止めても…だけど、
引き止めて、自分はアンドレに、何を話そうと言うのだろう?

「いやだ」オスカルは声に出して言った。

窓の外に立っている巨大な樫の木が、風に晒され、急に大きくざわめいた。
オスカルはビリビリと鳴る硝子戸を開いてバルコニーに出ると
風に煽られて撓る枝をしばらく動かないで眺めた。

昔、もっと子供の頃、部屋の中から鍵をかけて、オスカルはここから木に飛び移り
部屋を抜け出し、アンドレの部屋に遊びに行ったものだった。
夜中まで遊び疲れて結局そのまま寝てしまい、ばあやには翌朝簡単に見つかり、
ふたりとも大目玉を食らった。

だけど、楽しかった。

「突風です」
まさかのあり得ない近い場所から、ジェローデルの声がして
オスカルは息を飲んで振り返った。
いつから居たのか、ほんの隣のバルコニーにジェローデルが
戸口にもたれてこちらを見ていた。
「ジェローデル?!」
彼の立っている所は2階ホールの言わば肖像画等を飾るために
壁に沿って造られた、飾り廊下から繋がっている細めのバルコニーで
構造上、オスカルの部屋の前の廊下からすぐに入れる所にあるが
家人がここを通る事は、普段まず無かった。掃除をするメイドの他には。
「ポーラにか?」
「彼女を責めないでください。
 あなたに恋いこがれていると丁寧に頼んだら
 ここを教えてくれました」

どう頼んだかは別にして、この典型的な貴族らしい男が
メイドにそんな場所を訊ねている所を想像してオスカルは
「ばかな、お前らしくもない」驚きを隠して言葉を繋いだ。
「あとは、気付いてもらうために何か合図をと思ったんですが
 偶然あなたの方が出ていらしたと言う訳です」
首尾にジェローデルは満足した顔で優雅に
オスカルに向かって腕を開いた。オスカルは嘆息して足下を見た。

「どうしてももう一度お顔が見たかったんです。
 こうして手の届かない距離に居る方が、
 あなたは私と話して下さるんですね」
近衛のときと同じに。と結んだジェローデルにオスカルは
石で出来た手すりに凭れ視線を外した。

「そちらへ飛び越えてみましょうか」
突飛なジェローデルの提案に、少し目を見開いてオスカルは彼を見た。
「・・・私の領地ではもう少し季節が深まったら、
 獣に香りの良いキノコを採らせるのですよ。
 ご存知かも知れないがその地方では古来からのやり方でしてね。
 そこの城には家畜小屋や、近くにはワインの醸成所もあって
 面白みがあるので子供の頃から気に入っているのです」
ジェローデルは続けた。
「ちょうど、そう、プチトリアノンに似ているかもしれません」
プチトリアノンと聞いてオスカルの瞳が揺れる。ジェローデルは微笑んでから
「もしお気に召したら、こじんまりとした別荘でも建ててみましょう。
 あなたが望むなら、兄に頼んでその城を貰い受けてもいい」
と続けた。ここに来て、ようやくオスカルは、彼が自分たちの婚姻後の
生活について語っていたのだと知った。
「兄は時々、とてもわたしに甘いので」
苦笑するしかないオスカルに、ジェローデルはバルコニーの手すりに近づき
まるで本当に飛び越えてきそうな様子で手を伸ばした。
「やっと、ご機嫌が直られた」

ゆっくりと、はっきりと、拒絶の意味を込めてオスカルは首を振った。
ジェローデルはさすがに落胆の色を隠しきれず、言い辛そうに問うた。
「失礼ながら、私の何がご不満ですか。
 お父上の横暴の片棒と仰っていたが、私は私の意思で
 貴女のお父上にお願いにあがったのです」
彼の声が止まるのを待って、オスカルは小刻みに首を振りながら
ジェローデルを一瞥し、部屋の硝子戸を開いた。
「お前とも良い友人であったのに。
 残念だ」
カタン と小気味よい音を立てて扉は閉じられ、その後二度と開かなかった。
「お前…とも…」
今度はオスカルを呼び止める事をせずに、一人になったジェローデルは
小さく彼女の言葉を繰り返した。

飾り廊下に降りたジェローデルは階段を上がってくる、
銀のトレーを持った黒い影を認めた。おそらくオスカルの部屋に行く途中なのだろう。
小さいカップだけが載ったトレーを慣れた手つきで水平に保ちながら近づいてくる。
アンドレ…。
判っている、愛する人を愛する男。取るに足らない。
彼女の中で、いかに彼の存在が大きかろうが、だ。

そもそも、そんなものは、まやかしだ。ジェローデルは心の中で否定した。
他愛ない小説の中にしか出てはこない、実際にはあり得ない、幻想に過ぎない。
「お前とも…」
否定したジェローデルの中で、オスカルの言葉がまた反芻した。


祖母に言いつかったオスカルへのショコラを運ぶ途中、
階段をゆっくりと降りてくるジェローデルに、アンドレは脇へ寄って道を開けた。
「やあ、アンドレ・グランディエ
 久しぶりだね」
今日はもう何度か顔を合わせているはずのアンドレに
ジェローデルは、たった今気付いたかのように声を掛けた。


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2007-12-18up



<5>
部屋に戻り、消えかけている暖炉に薪を焼べて、オスカルは
燃え上がっていく炎に冷えた手を当てた。
ジェローデルが邸に出入りしているのを無視するのもだんだん無理が来ている。
なんとかして、父に考えを改めて頂くか、諦めて頂く方法を
提案しなければと、彼女は考えていた。
さてどうするか。

「アンドレ・・・」
そこへ来て、オスカルはアンドレに部屋に来てもらうはずだった事を思い出した。
自分がジェローデルと話している間に来た風でもなかったが
もしかして入れ違いになったのか。
そう思い、オスカルは寝室の窓に移り、下の中庭を眺めると
いつものように篝火を焚いている門番のケヴィンを認めた。
辺りを見渡しても、彼女が会いたいと思う彼の姿は見当たらず、
迷う事無くオスカルは部屋を出た。


中庭に飛び出したアンドレは、水しぶきが上がる噴水までやって来て
膝を折って倒れ込んだ。 
そこで初めて彼は息をするのを忘れていた事に気付いた。
急激に供給される酸素に肺が痛み、口の中は乾いて、吐き気を堪えて咳き込んだ。
石像の天使が持つ水差しから吹き出した水しぶきが
容赦なく彼の髪を濡らしていく。 が、今のアンドレには気にならなかった。
「はぁっ、は…っ」

吹き出た噴水の飛沫は、次第にアンドレの髪から襟を浸食し
やがては心にまで流れ込んで、彼の怒りを鎮めていく。

 冷たい。
当たり前だ。
囲いを掴む手が凍りそうだった。

「妻を慕う召使いを…」
あの男を、初めて人を、アンドレは憎いと思った。
憎悪をいうのが、こんなにも苦しいものだとは知らなかった。
苦しみながらも、なぜこんなにも憎らしいと思わなければいけないのか。
その苦しみから逃れる術があるとすれば、オスカルへの想いも、
自分自身をも捨て去って、何も感じない傀儡のように己を消し去って
しまわなければならないとさえ、彼は思った。
だが、そんな事はとうに試して、不可能なのだと知っていた。


「アンドレ…?」
ふいにそのオスカルの声がしてアンドレは我に返り振り向くと
恐ろしいものを見るような顔の彼女が立っていた。
噴水の側で動かない彼を見つけ、あまりに驚いて
アンドレの名を呼び、それ以上は言葉を継げないオスカルであった。
彼のその背中を見るのは2度目であった。
数日前に、彼女の制止も聞かず、階段を駆け上がって行ったアンドレが
ステップを踏み間違えて倒れ込んだ。
今また、その決して明るくない視界の中で、噴水の飛沫に打たれている。
あの時は声を掛ける事すら出来なかった。今も彼の名を呼ぶ事しか出来なかった。

「アンドレ?」
水底に沈んだ白いカップがオスカルの位置からでも見受けられ
時間にするとほんの数瞬であったのかもしれないが
少し躊躇い、彼女はアンドレに近付いた。
「一体どうしたんだ・・・」

「ショコラは零した。
 カップは、今、不注意でこの中に落としてしまった」
「そんな事より、お前、びしょ濡れではないか」
「よせよ、お前も濡れるぞ」

アンドレは、腕を掴んで助け起こそうとするオスカルの手をそっと押し戻した。
「…何があった?」
押し戻された手を胸の前で握りしめてオスカルが訊いた。
「また淹れてくる」
「もういいんだ…!」
今にもその場を離れそうなアンドレを
オスカルは呼び止めようとして、思わず叫んでいた。

自分が元に届くはずだったショコラのカップを水の中から取り上げ
冷静さを取り戻しながらオスカルは告げた。
「お前と、ただ話したかっただけだ…」

ずっと、アンドレが荒れている原因が自分にあると判ってはいた。なのに
今朝は、彼に思ってもいない事を言ってしまい、それが澱のように自分の心を
鬱いでいる事がオスカルには耐えられなくなっていた。

その時、館の南の門が開く音が響いて続いて馬車が走り出す音が聞こえてきた。
「客人は帰ったみたいだな」アンドレは呟くように言うが
謝罪の言葉を繋げようとしていた彼女は返事せずに息を吸い込み
横を向いたままのアンドレの顔に手を伸ばした。

繊手がアンドレの顎を捉え、彼は
ハッとしてオスカルを見た。物憂いほど白く伸びた彼女の手は
アンドレの濡れた髪をかきあげた。
「今朝はわたしが悪かった。あのような事、本気で言ったんじゃない。
 そう言いたかっただけで…」

『お前に自由があると思うな。』

「そんな事は判ってる」
極力、アンドレは何事もないような声で答えた。
「あれがお前の本心じゃない事ぐらい。
 それとこれとは関係ない」
彼女の顔を見ると不思議と彼はいつもの彼に戻れるのであった。

「関係ない…?」オスカルはアンドレの言葉を繰り返した。
自分の所為じゃ無いと解釈も出来るが、なら何故、
アンドレが髪を濡らして、オスカルのカップを噴水の中に
落としているのかも、今また、優しい声で話していられるのかも
判らずに、混乱していた。
それよりも、関係ないと言うアンドレの言葉に、オスカルは
突き放されたようなショックを覚えていた。

「お前には、お前の事情があって、そうしていると言う訳か
 だが、早く着替えないと、風邪をひく…」
言いかけてオスカルはふと思い直したように告げた。
「私には関係なかったか」
彼女の言い方に、脱力したように目を閉じ、アンドレは眉を吊り上げた。
「話したいのか、
 不愉快にさせたいのか、どっちだ?!」
「お前こそなぜ判らないんだ?!」

「私はーーー」
ずっとお前と生きて行きたいのにーーー


顔にかかる乱れた金髪を撫でつけ、オスカルは
自分の言おうとしている言葉に愕然とした。
アンドレが自分に着いて来てくれる事を当然のように思って
今まで一瞬でも疑った事は無い。

だから、そんな彼にだから、何を言いそうになった?
お前と生きて行きたい?

自分に想いを寄せる男に、その愛に応える訳でなく、共に生きて行きたいと?
その愛は受け入れられないが側にいろと?
だからただ、お前と生きて行きたいのだと?
自分は昨日からこれが言いたかったのか?

まるで愛の告白のような言葉を彼に。

そんな残酷な事が言えるはずはなかった。

「きのう」
頭の中で展開される様々な想いを整理しきれず、
オスカルは混乱したまま、声だけが思った以上に冷静に出た。
「お前が大事だと言った、あれは私の本心だ。だからただ…」
昨日の事を思い出し、オスカルは反射的に手の甲で顔を押さえた。
粟立つ肌の代わりに泣き出してしまう寸前のように熱かった。
「お前にはいつでも
 幸福であってほしいアンドレ
 思い上がりかもしれないが、そう願っている」

アンドレがオスカルの腕に手をのばしかけてくる。
それに気付いたオスカルは、戸惑いと、嬉しさがないまぜになって
整理しきれないうちに彼女はアンドレの手を思い出していた。
優しく大らかに包んでくれるその手を。

勢いよく噴水がまた吹き上がり
吹き出す水に気を取られ、一瞬オスカルはアンドレから注意が反れた。



瞬間、アンドレが強くオスカルの腕を引いた。
「憐れむのか、お前も」
掴まれた腕からオスカルの体の中を痛みと冷気が突き抜けた。
そう思われるほどにアンドレの手も、声も冷たく、オスカルは戦いた。

「何を…違う!」
逆にアンドレの手を掴もうとするが虚しく空を捉え
バランスを崩し、その時、オスカルは乱暴に突き放された事を知った。
「アンドレっ」悲痛な声にアンドレは一度振り向き、
2人の傷付いた目がそれぞれの思いから交錯した。

背を向けて歩き出したアンドレを今度こそ呼び止める事が出来ず、オスカルは立ち尽くしていた。
言葉の代わりに込み上げてくるものを必死で堪え続けた。


彼が自分に愛を告げていなかったら、迷わずオスカルは
今この時でも、お前と生きて行きたいと彼に告げる事が出来ただろう。

お前と居た方が良い。と笑って、アンドレに宣言して憚らなかったはずだ。
自分の幸せ願う事を問われれば、彼女はいつでもその答えしか持っていなかった。

「違う…」
最後にオスカルがアンドレに告げた本当の意味を
彼女はまだこの時気付いてはいなかった。
自分と生きる事に幸福を感じてほしいと。

それが愛の言葉とは知らずに。



FIN





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何げに繋げてしまいました。
そんなわけで、良かったら部屋隅もどうぞ。 

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